「夏草や 兵どもが 夢の跡」
「夏草や 兵どもが 夢の跡」
これは松尾芭蕉の有名な句です。
奥州平泉に訪れた芭蕉がかつての奥州藤原氏の盛衰を詠んだ句なのですが、松尾芭蕉の時代でもかつてを想い、偲ばれる藤原氏の残滓をその光景に見る事は出来なかったでしょう。
私達も現岩手県の平泉町に藤原氏の残滓を感じ取る事は出来ません。
この歴史的には明らかだったらしく、「どこで誰が何をやったのか」まで揃っているにも拘らずそこから何も感じ取る事の出来ない侘しさ
それが句の良さになっているようです。
はた思えばかつて幼少期の自分が通った学校などを思い浮かべれば、通った当時のままという事もあれば建て壊して新しくなっている事もあるでしょう。
はたまた高齢化の波の中施設に改築されている、そこには確かにかつての名残というか記憶の中の断片を感じる事が出来ます。
遠い昔の記憶にあるかつての母校に通った道を歩くと、そのころの情景がまざまざとよみがえる事があります。
建て替わったはずの学校で廊下を歩いてみると匂いまでまるでそうであったと錯覚してしまいます。
とりわけ、初夏や秋口の季節の変わる頃合いなどは懐かしさを想起しやすくなるもので、道路の舗装や目につく建物が変わっていても、視界のどこかに過去の情景を見出してしまうものでしょう。
ありもしない想像を詠んだ句
ところが、自分が生まれるよりも遥かに昔の事となるとどうでしょうか。
かつて丸の内界隈は武家屋敷で、溜池山王赤坂に向かって名だたる大名の屋敷が立ち並んでいたとか。
さらに昔になれば品川宿より東側は海岸が近く、天王洲アイルなどは海の上となっているはず。
いや、そんな時間感覚ではなく、8千年も昔、2万年も昔、武蔵野台地以東は海だったらしく、現在の日本地図とはだいぶ形が異なるとの事。
そんな事を言われてもレインボーブリッジの上で太古の日本の姿に思いを馳せるなどという事も無ければイメージしてみる事はどこまで行ってもただの夢想に過ぎない訳です。
この句が意味する、かつて聞き及んだ栄枯盛衰に思いを馳せる様は全くの想像という事になります。
そうなると、この句の背景にあった「確かだったらしいどこで誰が何をやったのか」を全く思いもよらない景色を見ながら、そこに偲ばれるかつてを想像で投影している事になってきます。
旅の最中奥州平泉にあって芭蕉は「ほぉ~ここがかの平泉か~草が生えてるだけだな~」と景色から思い、全然名残がないじゃないのと信じられないような思いがあったのかもしれません。
しかし、聞き及ぶには確かにここが奥州藤原氏勃興の地で間違いないと。
そのとてもそうは見えない眼前の光景と、確かめることの出来ないかつての偉業の狭間に何とも言えない無常さを見出せるという事なのでしょう。
私の通った母校やそこに至る道も同様で、その姿を変え、かつての面影を無くし、遠いいつかの果てにはきっと何も無くなってしまう。
それは、記憶の中のどこかだけに留まらず、世代が変わり世の中の映り方も変わり、そうしてついえてしまう。
東京も日本も世界も人類もとおいとおい未来の果てにはきっと何も無くなってしまう。
そんな何もない砂だけの大地を眺めて遠い未来の果ての芭蕉が「砂模様 夏雲抱く 夢の跡」などと詠んでいる寂しさをふと妄想してみたり。。
この句はそんなアポカリプスを詠んだ句では無いのでしょうが、改めて書き出していくとそうとも読めていくから面白いものです。
最後に今回の解釈を添えて意訳してみたく思います。
「夏草や 兵どもが 夢の跡」 松尾芭蕉 (意訳)
夏の最中に生き生きと揺れる茂みを眺めていると思う。
かつてこの地で栄華を極め、一時代を築いた藤原氏を伝え聞くに
その事実が一体本当であったのだろうかと。
盛者必衰と世は言えど、こんなにも無情に残滓を残さないものだろうか。
そんな人類のもの悲しさをせせら笑うように、、いや、意に介さない様子で草木は生きている。
草木に人の世など関係ない。今この地にあって我物顔で振舞う権力者はこの草木なのだ。
先人たちの築きたかったであろう時代に思いを馳せると、残酷な現実から寂しさを感じずにはいられないものだ、、、
なんと人の世のわびしいものだろうか、、なんと人の世の残酷な事だろうか、、
一切の無常。
平和でのどかな眼前の景色から、私は世の理を見出しているのだろう。
、、、、、、とか言って全然そんな事考えて詠んでなかったらウケる。終
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